Profile Gallery

斎藤順正 画歴

1946  新潟県吉田町(現・燕市)に生まれる
1965  県立巻高校卒
1970  東京芸大絵画科(油絵/脇田和教室)卒業
1985  東京セントラル美術館油絵大賞展入選
1986  東京セントラル美術館裸婦大賞展入選
1989  銀座大賞展入選。新潟県与板町(現・長岡市)にアトリエを借り通う
1990  個展/銀座正光画廊
1991  第6回銀座大賞展入賞
1994  三人展/京都 ギャラリー ヒルゲート
1995  雪梁舍美術館展新人賞 新潟寺泊文化センター ロビー絵画制作
1997  絵画展/新潟伊勢丹
1998  個展/国立 ゆりの木 二人展/長岡近代美術館
1999  絵画展/松戸伊勢丹 巻町(現・新潟市)越前浜にて制作を始める
2000  絵画展/浦和伊勢丹
2004  個展/新潟絵屋
2005  新潟日報「窓」欄にて1年間挿絵担当。
2006  展示/「弥彦の桜・春秋図」六曲一双 新潟 加島屋本店ギャラリー
2007  絵画展/長岡大和
2009  絵画展/弥彦美術館  絵本『はざ木のニック』(パロル舎)刊行
2010  個展/ホテルオークラ新潟 ギャラリー・柴野
2011  個展/アートギャラリー万代島(朱鷺メッセ)
2013  個展/アートギャラリー万代島(朱鷺メッセ)
2014  個展/東京東中野PAO Gallery
* その他展示多数。無所属。

 

 

 

斎藤順正 プロフィールギャラリー

空(そら)

一本の桐の木を見上げていた。あきずに見る。
雪は絶えまなく宙から溢れ落ちてくる。

 

 

 

小屋

外は吹雪いて来たようだ。
二、三日は閉じこもるしかない。
いろんなことを思い起こしてすごそう。
食料はある、酒もある、灯油もある。

 

 

天窓

 

 

雪の舞踏

プラットホームに立って電車を待っていた。とつぜん吹雪が襲ってきた。
しばらく激しい舞踏がくりひろげられショーは行き過ぎていった。
向かいの木造の官舎、今はない

 

 

 

生まれ育った町のこと

18歳で東京に出るまで、新潟県西蒲原郡吉田町(2004年より燕市)に生まれ育った。吉田町は川に沿って古い家が並ぶどこにでもあるような田舎町だが、雁木のある商店街の中心に、とつぜん赤レンガの建物があらわれる。二棟の洋館を備えた大きな屋敷で、中には十数の蔵もある。今井邸である。代々豪商として鳴らし、幕末期に長岡藩の財政立て直しを請け負い、戊辰戦争では軍費調達に奔走した。洋館は明治以降、蔵もふくめて順次建てられ、今井銀行として蒲原の経済の中心をなし、以来、町にそびえ今に残る。

田舎町の通学路に、その越後蒲原文化ルネサンスの代表的建造物はあった。五年生のときにクラブ活動がはじまり、得意だった野球部に入るつもりだったのに、希望人数が多すぎて、よりによって一番苦手な体操部に回されてしまった。ショックだった。落胆したその日の帰り道、春の陽光が異様に眩しすぎた。洋館の前で鼻血が垂れてきた。なかなか止まらないので頭を反らし青空を仰ぎ見ながら、灰色の花崗岩の石段にあおむけにもたれていた。しばらくすると通り向かいの種屋の親父さんがやってきて、店の畳に寝かせてくれた。

大慌ての母がやってきた。医者にかかったが原因の分らない病気ということで、事態はだんだん大げさになり、身体の弱い子供というレッテルが張られることになった。本当はどこの痛みもあるはずがなく、全然ヘッチャラだったのだ。おかげで体操部には出なくてすんだが、気恥ずかしさと後ろめたさで表通りを避け、長いあいだ裏道から学校へ通った。そんな光景が、さも見ていたかのようにいま思い出される。

吉田には、越後の作品や赤冨士で名高い、日本画家・横山操が生まれた。操と父は小学校の同級生だったが、一緒に歩いていたある日、赤レンガの洋館の前で、下級生が油絵を描いていたそうだ。昭和ひと桁の時代、油絵の具などは吉田では手に入るはずもなく、操はしきりにケナリ(うらやまし)がっていたという。焼酎が入ると父は饒舌だった。

東京オリンピックのポスターを作ったデザイナー・亀倉雄策氏も吉田で生まれ、小学高学年まで暮していた。幼い頃から、赤レンガの建造物に慣れ親しんできたことだろう。亀倉氏のモダンな感覚のうちには、蒲原文化ルネサンスが宿っていたにちがいない気がする。後年、テレビなどでお見かけした折の氏の雰囲気や斬新な作品と、いつまでも抜けきらない蒲原訛りとの対比がゴット可笑しかった。赤レンガは、心の中に光となり陰となって生きつづけている。(新潟日報掲載より)

 

 

 

白いステンドグラス

光の造形作家 菊池健一君へ

雪の村

菊池健一君との出会いは、私が一浪で彼は現役高校生、美大をめざす予備校で夏期講習が過ぎた頃だった。スケールの大きい石膏デッサンを描いていたのを思い出す。翌春芸大入学し同期生となった。デザイン科の彼と在学中に一緒の教室だったことはなかったが、芸術祭やなんかでナゼか行動を共にした。1970年代を迎えるヤヤコシイ時代、学生生活のヤヤコシサも共通する部分があった気がする。お互い精神的にどこかねじれた学生時代を送ってしまったかもしれない。

時が経ち、彼がステンドグラス作家に変身してフランスから帰国し、手賀沼のほとりに工房を構えるという時に再会した。工房は我が家から目と鼻の先だった。ひんばんに遊びに行くようになる。菊池健一は旺盛に仕事をした。印刷機メーカーから発注の巨大ステンドグラスの制作で手伝いに携わり、その後2~3の作品の制作にかかわらせてもらったが、私にとっては未経験の、溢れる色彩が光を通して交錯し、位置を定める世界は楽しかった。

ある時、彼から一つの申し出があった。仕事の合間に個人的に「白いステンドグラス」を作ってみたいので、雪景色の絵を提供してくれないかという。白いステンドグラス? いぶかしく思ったが、彼の仕事場に置かれたワットーの絵を模写したガラス板を思い起こした。「白絵具で描かれた絹のドレスの模写、そんなようなもの……?」と尋ねたが、菊池健一は「いいや違うんだよ、あのなあムニャムニャ……」と例のごとく、わかるようなわからないような説明をしてくれたがさっぱり理解できなかった。彼は、私の雪景色の作品ファイルから一枚を選んで制作を始めた。

仕上がった作品は60センチ角のもので、中央にF4号あまりの古いドイツガラスに「雪の中の村」の絵柄が薄墨のようなもので焼き付けられ、その外側を雪の結晶模様のスリガラスで囲い、またその外側を赤と緑のボーダーガラスが縁どっている。彼は微妙に色調の異なる二枚を仕上げ、一枚を私にくれた。シンプルで美しい作品だった。冬景色とガラスの結晶模様を調和させた、風情ある作品だと思った。私は窓に飾ってみたり、照明をほどこしてみたりしていた。

彼が昨年末に亡くなり、先だっての私の個展に追悼の想いを込めて展示した。意表をつかれた。 ステンドグラスはたまたま窓の高い位置に飾られることになり、見上げて鑑賞すると、曇り空でも光は鮮やかで、そこに、はっきりと私の見た冬の村の光景が浮かび上がったのだ。
雪の原っぱや屋根の雪、舞い散る雪片は真っ白く、灰色の雲がいまにも動くようで、村の樹木やハザ木は黒ずんでいる。まさに白い世界がガラスにくっきりと表現されていたのだった。青空を通すと、よりいっそう白い世界は輝いた。
これこそ彼が見せたかった「白いステンドグラス」だと理解した。私は菊池健一の魔法にかかった気分がしている。その作品は今も私の家の窓の高いところにぶら下がっている。

『菊池健一君を偲ぶ会』より 2007年4月15日

 

 

 

Profile Gallery への2件のフィードバック

  1. 野崎 茂 のコメント:

    突然のメイルで失礼致します。以前「アートギャラリー万代島」で先生の作品「裏庭の雪」をお頒けいただき、昨秋も「弥彦の丘美術館」で個展を拝見させていただきました野崎と申します。その折先生にご説明いただいた長岡花火の小品が心に残っております。その際もお頒けいただこうか、どうしようか迷ったのですが、この歳ですのでもう「物」は増やさないようにしようと諦めて帰りました。今になって思い直してみて、「小品」ならいいかという気になって参りました。つきましてはその「心に残った絵」はまだお手許に残っておりますでしょうか。そしてその場合はお頒けいただくことは出来ますでしょうか。確か入り口付近の柱に掛かっていた数枚の絵のうちの1枚だったと思います。先生のこのHP最初の頁の「打ち上げ花火」という題の絵のような感じだったと記憶しているのですが。唐突かつ勝手なお願いで恐縮ですが、出来ましたらご確認のうえお返事なりと頂戴出来れば幸いです。  野崎 茂

  2. CAPURI のコメント:

    野崎茂様
    お返事が遅れ、失礼いたしました。
    近日中に、お電話で本人からご連絡をさしあげます。
     管理者

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